ぷよらーアドカレ2024に参加しております。
自分史です。12000字くらいあります。
記憶違いあるかもしれません。ご訂正いただけますと幸いです。
なにかいろいろとエピソード教えてくれると嬉しいです。
◇ ◇ ◇
催促・飽和・凝視
むかしむかし、インターネットのなかった頃。
ゲーマーはどうやって攻略を伝えていたのか。
月に一回、ゲーム雑誌が本屋に並んだ。
そこにはあらゆる攻略記事が書かれ、ゲーマーはむさぼるように読んだ。雑誌には読者投稿コーナーがあって、きれいなイラストやネタ漫画がぎゅうぎゅうに詰まっていた。
みんな情報に飢えていた。
それしかなかったから。
格ゲーの記事はあってもぷよぷよの記事はなかったし、たまにあってもゲーセンで火花を散らすつわものどもの魂を満たすにはとても足りなかった。
初代ぷよぷよは、コンマ1秒でも速く致死量を送り込むゲームだった。
1994年の秋(30年前!)にぷよぷよ通がやってきた。初代との本質的な違いはたった一点、相殺があること。
一個のルール変更が、とてつもない世界の扉であると直感する。
わくわく感だけ持って、無邪気であることにも無自覚なまま、僕らは扉を開けて飛び出した。だけど、今思えば僕らは、ぷよぷよの道を行く足取りさえおぼつかなかった。
持っている武器は、5連鎖までの階段積みと、連鎖尾を増やすあやしげな方法、ツモ次第で組める折り返ししかない。
斉藤さんは、きれいな挟み込みと斉藤スペシャルを披露していた。とりさんという女性プレイヤーは今風にいうとサブマリンかメリ土台の変則形から連鎖尾を構築していた。だけど連鎖量はどうしても足りなくなりがちで、10連鎖以上を狙える階段折り返しが究極のものではないかと考えはじめた。
秋葉原駅の電気街口から出て高架横の信号を渡ると、目の前にアキバのセガがあった(今は秋葉原GiGoの1号館だ)。
入り口から地下に下りる階段はゆるやかに曲がっていて、下りたところの目の前にぷよぷよ通の対戦台があった。
世はまさに通信対戦台の時代。2台の筐体を背中合わせに並べて、片方が1P側、もう片方が2P側になる。ストリートファイターII、キングオブファイターズ、サムライスピリッツ、その他もろもろの対戦台がセガの地階に押し込められて、夕方から夜遅くまでずっと、電子音と打撃音と歓声が渦巻いていた。
強者が座ると、ギャラリーが群がる。対戦したい者はシマの反対側に並ぶ。誰かが強者を討ち取ると、ぞろっと人が動く。
中学生のころのウメハラがヴァンパイアハンターで200連勝している。背後ではバーチャファイター2で100人近く集めてランキングバトルをしている。
ぷよぷよ通の通信対戦台だけは、横並びだった。
相手の雰囲気を感じながら、なんなら話しかけながら、ぷよぷよ通の対戦を続けた。
誇張ぬきで全国津々浦々から、あらゆる対戦ゲームの戦士がこのゲーセンにやってくる。
胸に大きな闘志を秘め、顔をこわばらせながら闘技場への階段を下りてくる。彼らの眼前にまず映る、ぷよぷよ通の対戦台はまるでウェルカムボードのようであった。
だから僕らも気が大きくなった。
ここで戦うぷよ戦士は、日本に名を轟かす武者であるべきだと。
電気街アルルこと、大島さんはまさしく一騎当千であった。
アルルさんはアルルが大好き。初代ぷよぷよでエンディングのアルルがいちばんかわいいから、いちばん確実にクリアできる技を磨き抜いたという。
階段5連鎖から派生する連鎖技術については、アルルさんがすべてを究めており、いまでも彼を超える技を見ることはできない。
ぷよぷよ通になってからはそれだけでは不十分とおもったのか、階段折り返しや彼にしかできない複雑な不定形も駆使し、だれもが認める電気街の頂点に立っていた。
彼はたぶん、トップであることにそこまでのこだわりはなかった。
アルルと遊べることが何よりも幸せ。
底抜けに朗らかで、誰にでも優しく、とても大人びて、子供っぽく。
不思議と魅力が詰まった、そんな人だ。
僕はなんかすごく、攻略本を作りたかった。
アルルさんは、いるだけで絶対的な存在だけど、トップオブトップ以外は、なにかしないと存在が残らないのだ。
全国に先駆けてやるという気概もあった。だから背伸びもした。ぷよを組む手さばきは全然おろそかだったけど、それでも理論を提示したかった。
「相殺」がもたらすものは何か。
お互い10連鎖を組み上げた状況では、先に発火すると不利になる。相手に伸ばされて11連鎖を打たれればそれで負ける。
では、先に打たせるにはどうするか。
10連鎖の上に2連鎖を作って打てば、相手は埋まって死ぬか、しぶしぶ大連鎖を先に発火するしかなくなる。
こんな典型的な状況は、ゲーセンの現場ではめったに見られなかった。
大連鎖とは別に小連鎖を作って発火し、相手に大連鎖を打たせたあとで、限られた時間で自分の連鎖を伸ばして相手を上回る。
ここまでの芸当をこなすほど、僕らの連鎖技術は成熟していなかった。
とはいえ、理想をつきつめれば必ずこの技に行きつく。理論としてはきっとただしい。
これから確実にぷよ対戦の中心になるだろうこの技に、名前をつけたい。
「催促」という言葉が空から降りてきた。
相手の行動を促すために自分から動くのだ。「催促」という語義に完全に一致している。
思えば「相殺」という用語もそうだ。昔からあるちょっと難しめの単語で、ゲームでの用法と語義がぴったりと合っている。
非常に理知的で、国語としてしゃれているとさえ思った。「カウンター」でも「打ち消し」でもなく「相殺」が選ばれたことには、ぷよぷよ通に高い文化性を期待するコンパイルの想いがきっと入っている。「催促」はその想いを引き継いでいる。
「発火催促の2連鎖」
僕の指がカタカタと動いて、ワープロにそう入力された。
攻略同人誌のタイトルをつけるとき、もういちど天からことばが降りてきた。
タイトルは「乱入されたよ」になった。
ぷよぷよ通で相手に対戦を求められたとき、左上にそっと表示される文字。格ゲーみたいにド派手な演出ではなく、むしろやわらかく遠慮がちに現れる。
同人誌の原稿ができたはいいが、仲間うちにちょっと配って、あとは即売会で数冊頒布できれば良いか、という感じであった。雑誌の攻略を少しだけ出し抜ければ満足だったし、正直なところ印刷所に持ち込むほどのお金もなかった。B5中綴じのコピー本として、21部だけ作った。
それでも、大切な情報であれば、拡散していくとわかっていた。
なぜなら、そこがゲーセンだからだ。
インターネットがまだ普及していない時代。
情報を探しに行くなら、直接会うしかない。
このころのゲーセンは勝手に人があつまり、ゲーマーとゲーマーをつなぐハブとしての役割を果たしていた。
よそのゲーセンに行けば新鮮な対戦ができて、仲良くなれば情報のやりとりができる。
俺より強いやつに会いに行く。ストIIの有名なキャッチフレーズを地で行くようなプレイヤーがどのゲームにも大勢いて、青春18きっぷなどを使って日本中のゲーセンを踏破していたのだ。
明大前のナミキというゲーセンのぷよぷよ通対戦台に「乱入されたよ」が吊されていた。という話を聞いた。そこから子コピー、孫コピーがだいぶ作られたらしい。
仙台のプレイランドエフワンでは、地下にある店の奥のほうにぷよぷよ通の対戦台があって、そこにも「乱入されたよ」が置かれていたらしい。その冊子は孫コピーぐらいだったとも聞く。
1996年、第2回ぷよぷよマスターズ。ぷよぷよ通を使ったはじめての全国大会で、アルルさんが優勝した。
1万人規模、空前の大会を制した。
優勝者インタビューはテレビで流され、きっと1000万人とか2000万人くらいの日本人が見たと思う。
ぷよぷよの魅力を聞かれて彼は、
「キャラクターがかわいい」
と答えた。
そこは、「アルルがかわいい」と言わなくちゃ! と彼を知っているひと全員がそう思っただろう。
大会に併設されていた同人誌の即売会でもアルルさんは大活躍で、そこにあった同人誌をすべて5冊ずつ購入したという。
「今日は日本一をふたつ取った。大会と同人誌と」
彼は屈託なく笑ってそう言った。そんな人だった。
それから2ヶ月後くらい、アキバでアルルさん100人組手が開催された。
バーチャファイター2にそういう文化があって、全国を獲った最強者が、連続で100人を相手するのだ。
少林寺かジャンプの漫画かってくらいガキの心をざわつかせるこの企画が、ぷよぷよでもできるって、それはもう誇らしかった。
アルルさんに挑戦した面子をみると、三枝さん、ラーズくんなど秋葉原でずっとやってきた仲間たちがいた。これからAJPA大会で大活躍することになる村田のあっちゃん、ミスケンこと三須健太郎の名前もある。
錚々たる顔ぶれを敵に回し、アルルさんは89勝11敗で完走した。
たぶんこの日が、電気街ぷよぷよのいちばん輝かしい一日だった。
このころすでに、最強は明大前ナミキだろうと言われていた。
彼らは戦略を実現できるほどの連鎖技術を磨いていたし、その証拠に「飽和」という用語を編み出していた。
「催促」は後打ちで勝つ技術であり、それに対して「飽和」は先打ちで勝つ条件である。
彼らは、その盤面から理想的に組み上げて得られる最大の連鎖量のことを「飽和連鎖量」と呼んだ。相手の飽和連鎖量を超える連鎖を先打ちすれば、どんなに相手ががんばっても返されることはない。
催促をくぐり抜けて、相手の飽和を上回って先打ちして勝つ。催促を前提としたより高度な次元の戦いに突入していた。
それにしても「飽和」とは、あまりにも適確な用語だ。
元来化学用語で、溶液に限界まで、もうこれ以上溶けません!というところまでものを溶かした状態を指す。
ぷよぷよのフィールドに、もうこれ以上連鎖を詰め込めません!という状況に、この言葉を転用した。
義務教育で聞いたはずの、けっこう難しめの単語。これがぷよぷよ通にぴったりマッチして、ほんのり理性の香りすらする。
よくわかった。もう自分の手の中に、ぷよぷよの物語はないのだ。物語は新たに台頭してきたプレイヤーによって書き継がれ、いまさら僕の記載すべき文言は、ただひとつもない。
アルルさんや斉藤さんは明大前ナミキへ行くようになった。
僕はアキバの雰囲気が好きだったし、自分が中心になれない場所に行く気にもならなかった。
ただ、アキバを続けるとしても僕は実力がなさすぎたし、排他的になりすぎたりもした。そしてアキバの地下1階はそれが許されるほど甘い場所ではなかった。
横並びの対戦台は撤去され、奥に押し込められて普通の対戦台になった。
僕も、あまりにぷよぷよにかまけて、学業をおろそかにしすぎてしまった。生きるためにやらねばならぬことに、帰るべき時間が来ていた。
「凝視」という言葉を聞いて、とどめを刺された気がした。
これは技術というより、精神論の言葉だ。「凝視」と呼びたくなるほどしっかりと相手のフィールドを観察し、対応せよ。
自分の手がおろそかなうちは、この領域へは踏み込めない。連鎖技術を確立させ、「催促」と「飽和」を駆使するもの同士が戦うとき、はじめて「凝視」は意味を持つ。
僕はまだ、連鎖技術でもたついていた。
GTRという組み方も聞いたけど、その潜在力に気づくこともできず、階段積みがいまだに至上のものとおもっていた。
「凝視」などというプレイヤーはどれほどの高みにいるのだろう。
僕はぷよぷよ通を忘れてしまった。
しばらくは社会にでるために、勉強に没頭した。
◇ ◇ ◇
社会人として日々に忙殺されていたころ、ぷよぷよフィーバーが出た。
ぷよぷよ通から10年が経っていた。
ぷよぷよを作ったコンパイルは消滅して、セガがぷよぷよを引き継いでいた。
まったくぷよぷよから離れていた身であったけど、新しい攻略に挑めることに高揚した。
ぷよが3つ組や4つ組で落ちてくるのが、とても新鮮だった。アルルを選んでぷよぷよ通と同じようにやることもできたが、それよりも新キャラに果敢に取り組みたかった。
インターネットはメーリングリストや掲示板の時代で、今のLINEみたいにチャットだってあった。ぷよぷよフィーバーは通信対戦があり、家にいながら知らない相手と夜が更けるまで戦い続けることもできた。
それでも、ゲーセンはゲーマー同士をつなぐ場所でありつづけていた。
当時1年だけ長野に住んでいた僕は、国道18号と長野須坂線が交わるあたりにあるNASAというゲーセンで、ぷよぷよフィーバーを楽しんでいた。
確か、普段は対戦台にもなっていなかった。対戦したいなら相手に一礼して、一つの筐体の前に並んで窮屈に座ってやるしかない。だからなのか、ぷよらー同士の距離感は近かった。僕はたぶん、東京から来た珍客として、ひとまわりは若い地元のぷよらーに受け入れてもらっていた。
彼らは長野でも大会が開きたいと言った。彼らには熱意があり、僕は広報的な仕事とかつてのツテを提供することができた。協力できることが、実にありがたかった。
大会は1年に5回もやった。
東京からはアルルさんも、その親友の小島さんも来てくれた。
名古屋からは、すけぞーさんの車に乗って、とんでもなく強くてすごく仲の良い若手プレイヤーが来た。もちろん、くまちょむさんとかめさんだ。
アルルさん対くまちょむさん、という貴重な一戦もリアルに見た。
勝敗にあまりこだわりのないアルルさんは、当然アルルを選んで、かつてアキバで見せたような複雑ですばやい中連鎖を組んでいた。彼はキラキラと輝いていて、やはりいるだけで途方もない価値があった。
名古屋勢は絶対的に強くて長野勢はついに一回も4位に入れなかったけれど、それほどの大会を開けたことは胸を張って誇ってよかった。
自分といえば、ふとんを借りて東京から来る遠征組を自分の部屋に泊めたり、二人乗りの自転車を追いかけて真夏の空を疾走したり、30代にもなってアホみたいに青春した。
そのころ始めた若いぷよらーにとって、たくさんの有名プレイヤーを輩出した明大前ナミキと横浜のセブンアイランドが伝説の地であり、その前にあった電気街のセガは霧につつまれた神話の世界のように思えたらしい。
神話界から出てきた僕も、レジェンド扱いされたりした。今風にいえば、SSRのクセにまるで使えないカードみたいで、苦笑いするしかなかったけれど。
東京に戻り、僕は結婚した。結婚式にはアルルさんと小島さんが出席してくれた。
それからは、仕事も家庭もものすごく忙しくなった。きっと誰の人生にもあるように、いいことも悪いことも山のように起きた。ゲームはまるでやらなくなり、かつての仲間とは疎遠になってしまった。
あっという間に、10年以上が過ぎた。
◇ ◇ ◇
事情があって、私は仕事中心から家庭を軸にする生き方に変えていた。
やることだらけで疲れていたころ、ぷよぷよクエストをはじめた。
スキマ時間にちょこっとケータイを見て、ぷよぷよに似たものに触れてみたかった。
横8縦6のフィールドに詰めこまれたぷよをなぞり消しして、そこから起こる連鎖を眺める。かつての経験はちょっとだけ役にたった。自分がぷよぷよをしてきた人間だ、ということを実感することはできた。
はじめて数ヶ月ころの楽しい時期に、ひさしぶりに懐かしい声の電話があった。
アルルさんは、
「良いお知らせではありません」
と言った。
私ももう年齢を重ねていて、それだけで何のことか悟るものがあった。
10年以上の年月をあけて、私は彼の家へと向かった。
郊外の、中心部からはさらに外れたところの、平坦な土地を四角く区切ってちいさな古い家が立ち並ぶあたり。
雲の多い空はわずかに湿って、草と水路のにおいがする。
かつてなんどか来たはずのところなのに、はじめてなのか、なつかしいなのかわからなかった。あのころは深夜までゲーセンで遊び倒して、小島さんの車で送ってもらったりした。夜の暗闇でしかこの家を見たことがなかったかもしれない。
アルルさんはなにも変わっていないように見えた。
彼の家のことや、職場のことを少しだけ話した。それはアキバにいたころには知らなかったことであった。誰もが生きていく以上は抱えなければならないものがある。それだけのことに過ぎない。
大切にしている同人誌のうち、なにを手元に置くのか。
アルルさんにとっていちばん大事な作業を、私たちは手伝った。
アルルを見つめる屈託のない笑顔は、昔と同じ、そのままだった。
ちょっとだけぷよクエの話を振ってみたけど、今風の絵柄はあまり好みではないらしい。コンパイルのころのアルルを、いまでも一途に想っている。
アルルさんとぷよぷよはやらなかった。自分が、あまりにもぷよぷよから離れていた。少し前はぱのおさんや明大前の田中さんが来てぷよぷよをやっていたという。
そのかわり、彼のパソコンを借りて魔導物語をやった。
魔導物語1-2-3の1、幼少期のアルル。
昔のRPGらしく、しっかりとレベル上げしてからでないと次へ進めない、そんなゲームバランスになっている。
私は1階のオートマッピングがたいして埋まらないうちに階を進め、うろこさかなびとに阻まれてあっさりとゲームオーバーになった。
「なにやってんの?」
アルルさんは笑ってそう言った。
アルルをばたんきゅーさせてしまうことは、とても良くない。限られた時間に追われていたのは私のほうだった。アルルさんは、大切にしているものをおろそかにすることはついになかった。
そういえば、私とアルルの出会いも、魔導物語であった。
「人類は、このゲームを遊ぶために38億年かけて進化してきた」という大げさにもほどがあるキャッチコピーが目に止まり、体力や魔導力を明示しないファジーパラメーターシステムが気になって購入した。
めちゃくちゃ面白くて、いろいろと感心して、まわりの人たちに勧めながら魔導物語を遊んでいたら、このゲームのキャラクターが登場するパズルゲーがゲーセンで出るらしい、ということがわかった。
初代ぷよぷよがゲーセンに来た初日から、50円玉も100円玉もごりごりと突っ込んだ。
パノッティを越せるようになって、ぞう大魔王、シェゾ、ルルーにも勝てるようになって、おじゃまぷよの海から3連鎖を見つけ出して、はじめてサタンを倒して。
もうここから先のライバルは、対人戦しかない!と思ったとき、あの彼が、いきつけのゲーセンのぷよぷよ台に座っていた。
通信対戦台なんてないから、サタンを倒してエンディングを見ている彼に、「対戦よいですか?」と声をかけたんだと思う。
彼はすごく強くて、僕は12連敗した。
そのことをアルルさんに話すと、会ったことは覚えているが、12連敗なんてなかったと思う、と言っていた。
アルルさんは記憶力が非常に確かな人だから、これは私があとで思い込んだ幻想だったのかもしれない。それほど彼は強かったから。
ともかくも、ここから私のぷよぷよは始まった。
ぷよぷよ通が出て、彼の誘いに乗って秋葉原に出て。
ギャラリーの熱い視線を浴びながら対戦して、第1回の電気街セガ大会に優勝して、攻略本を作ったり、全国を飛び回ったり。
これは私の物語だ。
アキバにいたころの「僕」は「ぷよぷよの物語」を語ろうとしていたけれど、そんなものはいつまでも自分の手元に持っておくことはできない。
最後まで私のもとに残るのは、私の物語だけだ。
その年の冬、アルルさんは、彼自身のぷよぷよの物語を完結した。
◇ ◇ ◇
しばらくはぷよぷよクエストをやっていて、それはとても楽しかったけれど、ぷよぷよ本家のほうはずっとお留守にしていた。
ゲーセンの文化は少しずつ衰退していた。
子供が、どうぶつの森をやりたいと言ったから買った3DSで、ぷよぷよクロニクルをやってみた。なにをどう組めばいいのかさっぱりわからなかった。
形だけ知っているGTRで、たどたどしくいびつな連鎖を作る。
そこまで楽しくなかった。
ゲーセンの残り香を求めるように、松戸ソニックビームの対戦会に行ってみた。かつてはアルルさんとともに自分たちの根城の一つにしていたゲーセンだ。
ナミキの田中さんがいて、松金さんがいて、ずいぶんと久しぶりの対戦台で、接待も同然のぷよぷよをだいぶやってもらった。対戦後にいろんな話をして盛り上がったけれど、昔の話になるほど、自分のぷよぷよが遠い過去に置きざりにされる感じがした。
立川北口側のオスローでやっていた対戦台を見に行ったこともあった。そこにはALFさんがいたらしいけど、確かではない。やがて北口のオスローは潰れた。
南側のオスローで対戦会は引き継がれ、仕事の隙にこっそりと行ったこともある。飛車ちゅうさんに向かって、「最近のぷよもずいぶん定型的に組むんですね」とひどく失礼なことを言ってしまったような気がする。そのオスローも消えた。
そして、松戸ソニックビームも無くなった。
自分が思い出としたものは、ことごとく姿を消してしまった。
あてもなくインターネットを眺めていると、とんでもなく熱い戦いが目に飛び込んだ。
私があきらめたぷよぷよクロニクルの通信対戦で、激しく火花を散らすぷよらーたちがいた。おいうリーグだ。
「催促」や「飽和」や「凝視」があたりまえに行われ、下手すると「ファジー」まである。理論としてあらわれ、ついに現実にすることができなかったものが、普通に目の前を飛び交っている。
茫然として見た。鳥肌が立った。
ひととひととが交流し、最前線に立ってぷよぷよの物語を書き継いでいく場は、いつのまにかゲーセンからインターネットに変わっていた。
ぷよぷよeスポーツが発売され、もういちどやってみようと思った。
名前を「いりみど」にした。アキバ時代は「拝名いり」(はいないり)あるいは「電気街いり」と名乗っていて、たいていはいりさんと呼ばれていたし、ぷよぷよクエストでは「緑のぎるど」という緑色特化ギルドでやっていて、緑にまみれて遊んでいたから。
そして、自分がぷよぷよでずっとやりたかったことを、やることにした。
まったく新しい、自分だけのぷよぷよをやってみるのだ。
5mm方眼のノートを買ってきて、○×△□でぷよを書く。10通りの組みぷよリストを常に横に置いて、序盤の組み手順を全通りひたすらに確かめていく。
最初は、いわゆる初手天元(34横)から左右いずれかの折り返しにつなぐ方法を検討した。初手と二手目までは7通り、三手目は10通り、四手目も10通り。7x10x10でおおよそ700通りについて、形になるかどうか確認する。
これはものにならなかった。無理な形になりやすい。けれども、これをやることでサブマリンやなめくじなどの変則的な折り返しがある程度見えるようになった。
左下隅のぷよをひとつ、捨てぷよとすることできれいな形を組むことはできないだろうか? この発想は実を結び、「はこ積み」につながった。
目標はGTRだ。GTRはほぼすべてのツモで安定して組むことができて、強い。
なぜかつての「僕」は、GTRを思いつかなかったのか。
なぜ、戦略を実現できるだけの積みが身につかなかったのか。
たぶん心の奥底では、苦い思いがまだ刺さっている。自分のぷよは、ぷよぷよ通をあきらめてアキバを去った日で止まっている。連鎖技術についてはまだまっさらだったあの頃まで戻って、そこから物語を継がないと自分のぷよにならない気がする。
華々しくプロ制度がはじまって、ぷよぷよのコンテンツに困らなくなった。
youtubeを見れば、劇的な闘いがいくらでも出てくる。
だが、最強リーグの驚きはその上をいった。
それは、ゲーセンからインターネットに闘いの場が移る過渡期に、もがき、あがき、苦渋をなめたプレイヤーたちが、新しい時代に生まれ変わった証だった。
2022年シーズン1、特別公開対戦となった勝負を見に行く。
東京、中野駅から南へ徒歩5分。そこは20年以上前に自分が社会人の新人として懸命に働いていた場所のすぐ近くで、なつかしい記憶のなかにeスポーツのステージが乱入して、大昔の記憶を改竄してくるような不思議な錯覚をした。
RedBull Gaming Sphere Tokyoの丸いロゴを見て、地下への階段を下りる。地下への階段を下りた先にはいつでも闘技場が広がっている。
対戦者はともくんとmetaさん。周囲を凍てつかせるような闘気をまとい、武器となるコントローラーを入念に確かめている。
解説のALFさんとTomさんはスタイリッシュなスーツに身を包み、できる男の色気を振りまいている。
momokenさん、ぴぽにあさん、いさなさん、symさん。youtubeの中でしか見たことのないプレイヤーたち。みんな圧倒的な巨人に見える。ゲーセンの対戦台で永遠に勝ちを譲らず、背中で語っていた猛者どもと同じにおい。強烈なあこがれが今でも自分のなかにくすぶっているのを知る。
激戦がはじまり、さまざまな技が飛び交う。
「つぶし」「折り返し」「催促」「飽和」「凝視」。
「使いすぎ」「リソース有利」「威圧」。
かつて見たものから、新しい技や概念まで。
今まさにこの場で、ぷよぷよの物語が書き継がれている。
高く積み上げられたぷよのふるまいひとつが、つぎの一文字を刻む。
momokenさんとぴぽにあさんの決着もつき、解説会のあとでお話をする時間があった。
はじめてALFさんとお会いして、横浜セブンアイランドのことを聞いた。「凝視」という言葉は、セブンアイランドから出てきたものだと知った。
勇気を出して、私が「催促」という言葉を思いついた、と言うと、こちらが驚くほど驚いてくれた。
私が「飽和」「凝視」という用語が好きだったように、ALFさんも「催促」が好きだったらしい。
それはもう30年も前の話。
アキバセガと明大前ナミキと横浜セブンアイランドがあって、それぞれ「催促」「飽和」「凝視」という言葉を作った。
それからぷよぷよの物語はとんでもなく長く大きくなった。
ぷよぷよの一手に莫大な技術と研究が詰めこまれているように、地下のあの空間のあの瞬間に、連綿と続く物語が圧縮されていた。
「このひとが催促という言葉を作った」
と、momokenさんにも紹介してもらった。さらにはともくんを呼び止めたりした。
果報者すぎた。ぷよぷよの物語最先端どまんなかのスーパースターたちに囲まれて、誇らしいというより自分がひどくちっちゃくなった気持ちになった。
そう思うほど、私の気持ちは現役プレイヤーに戻っていた。
レート3500オーバーの化け物に包囲されたレート2700なのだ。
この大会、中休みの時間に観戦仲間に声をかけてみた。
お一人はぷよぷよ飛車リーグで戦ったこともあるだいごはんさんで、その後ぷよぷよレポートで大活躍することになる大明さんもいた。
話しかけることができたのは、ゲーセン時代の経験があったからだ。見知らぬ土地のはじめてのゲーセンに行って、そこで遊ぶプレイヤーにいきなり声をかける。それでたいてい上手くいった。今もきっと大丈夫。
話しかければ、そこからぷよぷよの世界が広がって、物語が生まれる。
夢見心地で帰って、switchの電源を入れて、あいかわらず上手くいかないぷよを熱心にこねまわした。
ひょっとすると3回り以上違うかもしれない相手と、泥臭くレートの奪い合いをする。
◇ ◇ ◇
そこからは、間違いない自分のぷよぷよの物語だ。
ぷよぷよ飛車リーグに1回目から皆勤して、C1とC2をいったりきたりしている。
地下闘技場であるRedbull Gaming Sphere Tokyoで開かれたオフラインのわいる杯で、たった1回勝っただけでめちゃめちゃ喜んだり。このときはメルボルンさんと娘のSmile(すみれ)さんとお会いできた。
たまたま行った早稲田大学祭の大会で、たった1回勝っただけで小躍りして喜んで、2回戦ではなんとあこがれのALFさんTomさんの実況を背に戦うことができた!(相手はKenrouさんだった。この方もぷよぷよの用語を大切にしていて、「連理」という言葉を提案して、ぷよぷよキャンプで私がコメントを入れたことがあった)。
ゲーセンにはめったに行かない。一回だけ偶然ぷよぷよ通を見つけたときは、CPUのスケルトンTやうろこさかなびとに「はこ積み」を組んで、ぷよぷよ通はいま初めて「はこ積み」を経験している!と変な感慨を覚えたりした。
ぷよぷよキャンプにもいろいろ書いた。
twitter(X)では毎日みんなと騒いでいる。
自分のぷよをやっているという、実感がある。
さがわさんのアドベント企画を知り、真っ先に手を挙げてみた。
この話はいつかは書かないとならないと、ずっと思っていたから。
レート3000にタッチしたら記念に書こうと考えていたので、執筆を名乗り出てから今日までに達成できればかっこいいと思ったが、結局2949で止まっている。この文章を書くのにだいぶ時間を削られたからまたちょっとレートが下がってしまった。
ぷよぷよが出て10年、ぷよぷよフィーバーが出た。
ぷよぷよフィーバーが出て10年、ぷよぷよクエストが出た。
それから10年、いまはぷよぷよeスポーツの時代。
ぷよぷよ30周年のとき、細山田さんが10年後のぷよぷよ予想をtwitterで募集していた。私は、ぷよぷよのオリンピック競技化、ぷよぷよの標準レギュレーションの発表、そして10年後も私はぷよぷよをやっている、と書いた。
今日もまた圧倒的理不尽に心折られながら、幸せを約束しないこのゲームに立ち向かっている。
これが私のぷよぷよ物語であり、今もなお書き継いでいる。
次の章は「はこ積みで達成したレート3000」、になる予定だ。
もしかしたらこの文章を載せる前に達成できるかも? と色気をだしてやってみたけど、やっぱりダメだった。ぷよぷよ、ほんとにわからない。
わからないまま、毎日やっている。