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ぷよらーアドカレ並走部 2025 太陽の申し子

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太陽の申し子
太陽の申し子

こんにちは、太陽の申し子です。東海地区のオフイベントにちょいちょい参加したりしてる、それなりに古参のぷよらーです。


改まって自己紹介をする機会って意外と無かったりしますよね。なのでぷよらーアドカレというこの場でさせて頂こうと思います。結構長くなってしまいますので、もしご興味がある方は最後までお読み頂ければ嬉しいです。よろしくお願いします。


初めてぷよぷよに触れたのは小3の時でした。自宅にスーファミの初代ぷよぷよとぷよぷよ通リミックスがあったので、ストーリーモードを遊んだり、近所の同級生と対戦したりしていました。しかし自分だけが突出して強かったので、友人らからは「お前とはこのゲームで対戦したくない」と言われCPU相手にぷよぷよをプレイし続ける日々が続きました。


当時のぷよぷよシリーズでは最新作だったぷよぷよSUN、その取説だったか攻略本だったかにコンパイルクラブの入会案内のページがあって、それを見て興味を持ち、当時小学生だった自分は親にお願いして定期購読をする事になりました。


ぷよぷよ関連の情報が月額350円で沢山入ってくる事にとても喜び、更には定期的にあちこちの地域のぷよぷよの大会スケジュールが公表されていたので、自分の実力でどこまで通用するのか、知らない世界に足を踏み入れたいという気持ちを強く抱いていました。


初めてぷよぷよの大会に出たのは小6の時でした。スーファミ版のぷよぷよ通で、参加者は100人近く居たと思いますが、当時は「自分こそが絶対に最強だ」という、子供ならではの尋常じゃない高さの自尊心がありましたので、ベスト8という成績にどこか納得がいっていなかった事を覚えています。ちなみに優勝者はくまちょむさんで、この時初めてくまちょむさんの事を知りました。やはり当時から群を抜いて強いプレイヤーでしたね。


ぷよぷよは今はもうほぼ全ての公式大会で通ルールが採用される事が多いですが、当時は最新作がぷよぷよSUNだったという事もあり、コンパイル主催のぷよぷよ大会では通ルールとSUNルールの大会が半々くらいの比率で開催されていました。


太陽ぷよの特性として、2連鎖目で2つ巻き込んで消すと凡そ岩ぷよ1つ分のおじゃまが相手側に飛ぶという仕様になっており、相手が太陽ぷよを絡めた連鎖を打つ前にこちらが速攻で仕掛けて岩ぷよを降らせ、更に相殺で生じた太陽ぷよでもう一度速攻を仕掛け一気にたたみかけて有利な形勢をとるという戦法で、今はすっかり自分の中に定着している階段積みスタイルとは全く違った戦い方をするプレイヤーでした。


この戦法が割と功を奏し、自分はぷよぷよSUNの大会では初中級者部門や一般部門で毎回好成績を残しておりました。コンパイルの関連団体の中に、毎度のように大会の運営や実況を務められていた方が居たんですが、


その方に「実に太陽ぷよの使い方が上手いですね~。何と言うか、まるで太陽の申し子のようだ」というようなコメントで褒めて頂き、自分が大会に出る度に太陽の申し子というあだ名で呼ばれる事が定着しつつありました。


当時はハンドルネーム(以下、HN)という文化が浸透しておらず、大会の時には皆本名でそのまま出場していました。しかしインターネットが普及してきた影響なのか、「大会出場時には本名ではなくHNを使った方がベター」という風潮が少しずつ広がってきて、それまでずっと本名で出場してきた自分もHNを考える必要が生じました。


そこで、当時あだ名としてつけられていた「太陽の申し子」をそのままHNとして使う事を決め、中1の12歳の時から今に至るまで、ぷよぷよの大会に参加する際はずっとこの名前を使っております。


自分を実力者だと認めてくれている人が折角つけてくれたあだ名なんだし、大事にさせてもらおうという思いや、自分でHNを考えるのがちょっとめんどくさかったとか、自分自身には正直ネーミングセンスは無いと思ってたので、自分でつけたとしても長年使っててそのHNに愛着が湧くのだろうかという疑問があったり、という様々な理由で、自分でHNを考えるという事はしませんでした。


(最近はあまり参加出来ていませんが)オンライン大会のTonamelの自分のアイコンの画像を太陽ぷよにしているのもこれに因んだ理由です。自分が今までぷよぷよと関わってきた中で一番思い出のあるぷよはやはり太陽ぷよだったので、少年時代に過ごしたあの楽しい時間や思い出が、いくつ歳を重ねてもずっと続けば良いなという思いでそのアイコンにしています。


ぷよぷよSUNルールでの大会が行われる事は今後は流石に無いとは思いますが、思い出は心の中にしまいつつ、今のオーソドックスとなっているルールで好成績を残せるプレイヤーで居られればなと思っております。


話を戻しまして、中学生時代は名古屋の地下鉄東山線本山駅近くの「新世界」というゲームセンターで隔月開催されていたACぷよ通の大会にも参加していました。対戦会も隔月開催(確か、大会の月と交互に開催って感じ)でしたが、当時中学生だった自分には交通費の負荷が高く、大会の方だけ参加していました。そして、大会が終わったらぷよらー皆で新世界から喫茶マウンテンに行くという流れが割と定着していました。


令和になった今も、名古屋近辺エリアでぷよイベントがあった際には大会後にマウンテンに行く流れになる事は結構あるので、時代が変わってもこの文化が続いているというのは、長年名古屋ぷよ界隈と関わってきた自分としては何かほっこりするものがあります。


けど先述したように新世界の大会に参加していた頃の自分は中学生だったので、交通費だけで精一杯でマウンテンでの会食代が捻出出来なかったので、当時の食事会には一度も参加する事が出来ませんでした。仕方がなかった事とは言え、少し後悔している気持ちもあります。


隔月開催されているぷよ大会の為に2年近く通い続けた新世界ですが、自分が中3の夏休みの頃に悪いニュースが入ります。新世界と同じビル内にあるパ○△×□▽店フロア(経営元は新世界と同じ会社)を増床する為に、新世界のスペースを充てるという事で、それはつまりこのゲームセンターでのぷよぷよ大会が継続出来なくなるという事を意味していました。当時の自分はそれを理不尽だと感じ、表情や態度には出さなかったものの、心の中ではかなり強い憤りを感じたのを覚えています。


正直、お店も商売ですし、雇用している従業員の生活の事もあるので、不採算事業は見切りをつけて、増益が見込める事業に舵取りをした方が会社としては正しい判断なんじゃないかなと個人的には思います。サラリーマンとして15年以上働いている今の自分が、あの当時の出来事を振り返ると「まぁ、残念だけど仕方ないよな」とはなります。しかし、その時14歳だった当時の自分にはそれがどうしても納得いかなくて悔しかったです。


けど、そんな中、一つ良い知らせが入ります。新世界に代わって、新しくACぷよぷよ通の大会や対戦会の定期開催を引き受けてくれるというゲームセンターが現れたとの事でした。そのゲームセンターというのが、BOXQ2、今の名称はBOXQ3ですね。


そう、ACぷよ通コミュニティと関わりを持った事がある方ならおそらく知らない人はほぼ居ないであろう、名古屋のACぷよぷよ通コミュニティの聖地です。新世界とQ2はそんなに距離が離れている訳でもないので、新世界でぷよを楽しんでいたぷよらー達はBOXQ2という新たな拠点に移り、これまで通りACぷよぷよ通を通して交流をはかり、コミュニティを発展させていきました。当時は自分が最年少だったので、その時の先輩方には本当にもう感謝感激といったところです。


当時の大会のメンバーもみんな競合揃いだったんですが、その中でも特に一際圧倒的な強さでギャラリーを惹き付けていたのがかめさんでした。そう、kamestryプロの事です。


その時の自分から見た当時のかめさんの最初の印象は、ほんの少しロン毛っぽい髪型で、鋭く冷静な目つきをしながら自信満々の笑顔で軽快に連鎖を組んでいくイケメンの兄ちゃんって感じでした。


圧倒的速度で複雑な形の連鎖を組み、ギリギリまで伸ばして上部で上手く回しをしながら発火して「よっしゃー引けたぞ!!······うん、全部繋がってるな!よし!」みたいな事をギャラリーに居るぷよらーと話をしながらひたすら勝ち進んでいました。その姿を見て、当時はプライドの塊だった自分も流石に認めざるをえない程の圧倒的実力差を感じました。自分もぷよぷよが強くなりたかったので、強くなるためのアドバイスが欲しくてかめさんに勇気をもって話しかけに行きましたが、あまりに緊張していたのでアドバイスして貰った内容をほぼ忘れてしまいました。パイセン、申し訳ねぇっす。


自己紹介のつもりが結構長くなってしまいましたね。ぷよに関するエピソードを語ろうとしたものの、小3から中学卒業までの話だけでこんなにも長いボリュームになってしまいました。まぁそれだけ思い出が多いって事でもあります。


まだ続きを書きたい気持ちもありますが、来年もまたぷよらーアドカレ並走部があれば、そちらで書いてみたいかなと思ってます。今回の投稿でこれで締めさせて頂こうと思います。大変長文の投稿になってしまいましたが、ここまで読んで下さった方々、本当にありがとうございました。感謝申し上げます。


これからも宜しくお願いします。
作成日時:2025/12/25 23:14
カテゴリ
日記
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