はじめに
早大ぷよマスターズについての著しく侮蔑的な記事が『セガeスポーツなかのひと』により投稿され、後に削除された件について、これは偶発的な事故などではなく、セガとしての計画的な行為であったと私は考えます。以下にその理由を順番に説明します。この記事を書いた目的は、セガが企業としてぷよぷよのコミュニティに敵対的な意思を持っている可能性が高く、その旨の注意喚起を行う事です。
万が一この記事が注目を集めた場合には、おそらく公式により私のアカウントごと削除されるでしょうが、その場合にはこれを読んだ方々に記事の内容と公式のアクションを併せて考えてみて欲しいと思います。
問題の記事掲載から謝罪への流れ
まず元記事の削除後に掲載された謝罪文についてです。読めばすぐにわかるように、この謝罪文には問題の記事が掲載されるに至った経緯にも、今後「ぷよキャン」をどうして行きたいかについても、一言も言及がありません。そればかりかこの謝罪文がセガ内部の何処の立場により出されたかについても明らかにされておらず、まるで問題の記事を書いた人物が後で問題になったから個人的に謝罪記事を出したかのようにも取れる内容です。必要な部分が完全に欠落しており、企業の公表する謝罪としての体を為していない。それは何故か。
信頼回復を図るつもりなど更々無く、あくまで批判を躱す為だけに書かれた文章だからです。
ぷよぷよの「プロ」化と、既存のコミュニティの処遇
セガがぷよぷよのプロ化に踏み切った時点で、既にぷよぷよというゲームには確固たるコミュニティー基盤が存在していました。それは企業として e-sports 事業に踏み切る上で無視できる存在ではありませんでした。誰もが知っての通りこれまで長年にわたってコミュニティの存在を、セガはその存在ごと無視して来たわけですが、ここに来てセガには選ぶべき道は二つに一つしか有りませんでした。
一つは、コミュニティを受容し、それに敬意を払いつつ、公式の事業との共存を図ること。
もう一つは、既存のコミュニティを破壊し、人的資源(あるいは商品)を独占すること。ここで言う商品とはセガの販売するゲームの事ではなく、それをプレイするプレイヤーの事を指しています。
選ばれたのが第一の道であったらどんなに良かっただろう。しかしそれは日本のゲーム業界においてはほぼ前例の無い事です。海外では幾らか事情が違いますが国内においてはコミュニティというものは無いものとして扱われるのが通例であり、それはセガとて例外ではありません。もし第一の道を選ぶならば、セガは前例の無い事をしなくてはなりませんでした。大きな企業であればあるほど、これは極めて難しい事です。殆ど不可能と言っても良い。だから消去法で第二の道が選ばれることは、ほぼ必然でした。
動機、及び採られた手段
考えても見て下さい。コミュニティ主体で、その中の実行力に優れた人間あるいは団体の手で開かれる大会や対戦会。セガはそれらをコントロール下に置く事ができません。金を掴ませて手駒として動かせるプロとは違う彼らの行動に、セガは指図をする上での正当性が無い。大会に使用するタイトルすらセガの意向では選べません。ではどうするか。法的手段を楯に直接的に潰す事ができるなら話が早いのですが、それには対外的に説明できる理由が必要であって、そんな理由は用意できませんでした。そこで選ばれたのがコミュニティの活動に難癖を付けて、イベントを開催するほどのやる気のある人間から、その意思を奪うという手段でした。これは実に賢い手段だと思います。悪魔的に賢い。この方法ならばセガ自体はさほどの批判を浴びる事なく、また(本当にそんな手が通用するかどうかはともかく)それなりに効果が期待できますよね。先のマスターズへの難癖は、このような目的の下に付けられた。私はそう考えます。
このようにして目論見通りに誰もが自主性を失い、セガの主催する公式のイベントだけが盛り上がるようになれば良い。金で動かせるプロを頂点に、有象無象の商品達がそれに憧れを抱く構造を作って、それが固定化されれば良い。そういう風に考えるならば、これはとても合理的な方法です。
注意喚起
本件をこのように捉えた時、私達は今後ぷよぷよというゲームとどのように接して行くべきか。それには様々な答えがあるかと思いますが、一つ言えることは、セガには草の根的コミュニティを容認あるいは黙認するつもりなど更々無いであろうということ。人々が楽しみ大切にしてきたこのゲームの文化に対して、それに払うべき敬意などセガは一片たりとも持ち合わせていないだろうということ。今まで大切にして来たものをこれからも大切にして行きたいならば、セガはその助けにはならず、むしろ障害として立ちはだかるであろうということ。この点に十分注意して欲しいというのが私の願いです。
釣り針がデカ過ぎる
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