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ぷよ界の30年~ゲーム・センターを中心とした概観~ その1

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にゃあ
にゃあ
初めまして。自分史も絡め、この30年間を振り返ってみたいと思い、筆をとりました。同様の試みでは既に、いりみど氏による入魂にして流麗かつ、滋味あふれる筆致がこちら にて拝読できます。同記事は主に「秋葉原大戦会」の隆盛を扱われておりますが、「その後」を残したいというのが主な執筆動機です。ゲーム・センターにおける対戦会は概ね、秋葉原&渋谷→明大前→横浜→名古屋の順に全国的な覇権が移っていきますが、その盛況を主として「外側」から見つめた者による、観察記録となります(筆者が参加した「明大前」から記述を始めます)。

ゲーム・センターの後に隆盛を迎えた、インターネット対戦も本稿の叙述対象となります。また、30年間を網羅するのが理想ですが、一個人の能力には限界があり、途中で力尽きる可能性もあります。その際はご容赦願います。

同様の企画としてはこちら も始動しています。当記事でも、辿れる範囲で動画のリンクも貼っていきたいと思います。そろそろ本文に入りますが、記憶違い等がありましたら、訂正いただけますと幸いです。また、お持ちのエピソードがありましたら、ご共有いただけますと嬉しいです。それでは……。

※全文で14,500字強(2記事合計)となります。ご覚悟を!www

1995年度~(『ゲームイン・ナミキ明大前』を中心に)

筆者が初めて「ぷよぷよ」に触れたのは9412月、ACぷよぷよ通だった。稼働開始からまだ1ヵ月の頃で、どこのゲーム・センターにも筐体がある状態。当時の友人からの勧誘だったが、そのゲーム性に魅せられるまで時間はかからなかった。

95年。高校に進学し、上記の友人とは同級生となる。ある日、彼から「ウチの近くに、全国トップ・クラスのゲーセンがある」と聞き、共に訪ねたのが『ゲームイン・ナミキ明大前』。……カルチャー・ショックを受けた。そこには当時の全国1位を争う猛者や、主要大会入賞者が集い、毎週火曜にバチバチの対戦会が開かれていた。まだインターネットが身近にない時代にも関わらず、口コミによる噂は広く波及し、名古屋や岐阜等からの遠征者も頻繁に来ていた(その中には、当時中学生だったくまちょむ氏も……)。

ナミキは「ゲーム・センターにおけるコンパイル公式大会」にも早期から参加し、初回の32人から64人、さらには史上初の128人大会にまで拡大していった。ぷよ通対戦台のスペースは決して広いと言えるものではなかったが、そこに128人も集まると……人生で初めて酸欠になり、慌てて外に避難したことを思い出します。

「ナミキ対戦会」は当時、明大前(東京都世田谷区)在住だった田中氏(初代ぷよ名人。「田中スペシャル」で知られる。GTRの岐阜・田中氏とは別人)が主催されていた。新入りの自分にも気さくに話しかけてくださり、お世話になった。この場を借りて、御礼申し上げます。その田中氏の「ぷよぷよ名人戦」における雄姿がこちら

また、「ナミキ対戦会」の様子は、Kuroro氏がこちらの動画で詳しく語っている。同氏と筆者はちょうど入れ違いで対戦会に参加した形か(筆者は大学受験のため、97年度はぷよからほぼ離脱)。

他に対戦会でお世話になった方としては、「斎藤スペシャル」で知られる斎藤氏。ぷよが上手いさわやか好青年である上に優秀で、記憶が正しければナミキ後は医学の道に進まれたはず……。「天は何物も与える」を地で行く方として、深く心に刻まれています。

さらに、当時の猛者として忘れてはならないのが、いりみど氏の記事での主題とも言える「電気街アルル」こと大島氏。その名を轟かせた「第2回全日本ぷよマスターズ大会」(96年)での雄姿はこちら。個人的な思い出としては……2000年代初頭、別の用事で秋葉原に行った際、帰りに『ハイテク・セガ』(当時)に寄った。ぷよ通対戦台は健在で、居合わせた大島氏と連戦になる。対戦後、少しお話をしたが、記事で綴られている通りのお人柄だった。改めて、哀悼の意を表します。

そうした猛者達を一瞬で黙らせる天才が突如、ぷよ界に現れた。「ミスケン」氏の登場である。

1996年度~(ミスケン氏と横浜『セブンアイランド』を中心に)

その降臨は彗星の如し……であった。96年の秋頃のこと。筆者は前回の参加から少し間をあけて、ナミキの対戦会に顔を出した。常連さんにご挨拶をした後、「ぷよノート」に目を向ける。

※当時はまだインターネットも普及しておらず、プレイヤー間の交流は対面と、各ゲーム・センターに置かれていたノートによる、手書き文字に限られていた。

その記述は今でも鮮明に目に焼き付いている。「ナミキ対戦会」に当時10代半ばの少年が参加し、上記の方々を含む猛者を圧倒していたこと、彼はそれまで見たこともない形を組み続けていたこと……。

よく語られる通り、当時の対戦で主流だったのは階段積みとカギ積みだった。95年頃から有志により、「それ以外の形を開発しよう」という動きも見られた(ほぉりぃ(真川)氏の「ホーリー・カウンター」、横えび氏の「男色積み」等)が、それらはまだ速攻と並んで「飛び道具」的な位置付けだった。

階段やカギといった「定形」とは明らかに異なるオリジナル連鎖や折り返しを次々と開発し、既存の定形外の連鎖も包含し、ツモに合わせて最適な形を選択していく……。先折りGTR全盛の現代では過去の遺産となりつつもあるが、当時の戦術において画期的だった「不定形」をたった1人で開発・体系化し、皆が理解できる形で普及していった人物こそが彼、ミスケン氏であった。本人は「天才」と呼ばれることを嫌っていた(「裏で誰よりも努力したので。」本人談)と聞くが、ここまでの革命を成し遂げた人物を、筆者は彼以外には1人しか知らない。「他に呼びようがない」というのが、当時を知る人間の偽らざる実感だろう。

ほどなく、ミスケン氏はコンパイル公式大会でも頭角を現し、全国的に名を知られる存在となっていく。それにつれて、ゲーム・センターの覇権も少しずつ、明大前から同氏のホームである横浜市(神奈川県)に移っていった。同氏主催による横浜『セブンアイランド(通称:七島)』対戦会の開始である。

残念ながら筆者はこの対戦会とはあまりご縁がなく、個人的な思い出として綴れることはほとんどない。ただ、部外者としてネット上の「対戦会記」はよく拝読していた。

90年代末期からインターネットが一般家庭にも普及。自宅に居ながらにして、地球上の出来事をリアル・タイムで追体験できる興奮に、世界中が沸き返っていた。世紀末やミレニアムの混沌と合わせ、振り返るに異様な光景だったとは思う。ただ、良くも悪くも世界を変えたインパクトは、当然ながらぷよ界にも波及していた。ノートからインターネット上の掲示板へ。コミュニケーションの場の移行である。

「横浜対戦会」の主催はミスケン氏だったが、対外広報的な役割はALF氏が担っていた。そのメイン業務は、自身のHP「零島」掲示板における、毎週土曜の対戦会記執筆。ここでの同氏の文章は、25年ほど経つ今でも印象に残っている。その豊穣たる語彙力から紡ぎ出される文体は、まさに風雅と称すべき佇まい。ここでのご経験が、現在の大会MCとしての安定感のある進行に寄与しているであろうことは、想像に難くない。HP運営会社のサ終に伴い、今では読めなくなってしまっているのが実に惜しい記録のひとつです(Google検索とWeb Archiveを駆使すれば、その一部はまだ読めはしますが……)。

一方の主催、ミスケン氏はさらなる修羅の道を独力で歩み、新たな地平を切り拓き続けた。「不定形」に続いて先読み手順の「合体」、それへの対抗策しての「クロス」、さらには「セカンド」理論の構築を経た同氏は、2002年に全盛期を迎えていた。

しかし、何事にも始まりがあれば終わりもある。同年を最後にそのプレイ時間は少しずつ減り、内容にも陰りが見え始め、運命の2004年を迎える。この年までに「ミスケン理論」を貪欲に吸収し続けたくまちょむ氏が王者の背中を猛追、射程圏内にまで迫ってきていた。どこまで当人達が「白黒つけよう」と思っていたかまでは筆者に定かではないが、遂に「その日」が来た。

2004516日、『ゲームイン・ナミキ明大前』にて「死合い」は行われた。そして、悲しくもこれがぷよ界でナミキに光の当たる最後の機会となってしまった。会場の選定プロセスについて筆者は存じないが、おそらくはミスケン氏のホームである横浜を避けた形か(追記:ナミキ閉店間近とのことで、同窓会的にトップ・ぷよら~達が集まったそうです。こちらを参照しました)。まずはミスケン氏vs.Alf氏、くまちょむ氏それぞれの30本先取。ここでくまちょむ氏が史上初、29-30でミスケン氏を撃破!直後にミスケン氏は「おい!このまま100先に行くぞ!」と叫んだという。それを良しとしないくまちょむ氏としばらくの押し問答。その末の「分かったよ!やれば、やればいいんだろ!?」という熱い応答の後、「死合い」の実現と相成った。そのもようがこちら。動画の概要欄に記載のある通り、29-30の続きから、という形でこの動画は始まっている。100本先取すべてが収録されているわけではないことにご留意いただきたい。

ちなみに、当動画の投稿主はACぷよ通の対戦動画を多数投稿されている。重要な試合は概ね網羅されており、プレイ・リストを辿ればすべてではないものの、あらかたの試合を見られるだろう。

先述の通り、ミスケン氏の全盛期は2002年で、この頃には衰えが見られていたという。全盛期かつ「デスケン」と呼ばれた超覚醒状態を収めた動画は、Alf氏によると「存在しない」とのこと。今や関係者の脳内のみに鳴動する「時空の物語」となってしまったが、その名残りはこの「死合い」にも確かに息づいている。

その最も分かりやすい例が、くらうど氏による切り抜きだろう。15連鎖全消しという結果もそうだが、何よりも構築手順が極まっている。その才能の片鱗を、確かに感じていただけると思う。

この日を以て、ミスケン氏は引退。ぷよ界はひとつの時代の終わりを迎えていた。一方で、その数年前から次なる萌芽も……。

1998年度~(インターネット対戦を中心に)

日本初の、ぷよぷよのインターネット対戦環境は何だろうか?……答えはX-BAND。日本での発売は96年とのことだが、ぷよ界で認知されたのは98年と記憶している。SFC版「ぷよぷよ通REMIX」にて、インターネット対戦が始まったのがその契機である。

当時の通信代は今のような「使い放題定額制」ではなく、「従量課金制」だった。使うほど料金がかさむ仕組みで、筆者を含む当時の少なくない若者が「1ヵ月の通信代が10万円(!!!)」の憂き目を見たことかと思うwww。無論、当時の学生には途方もない金額で、現代の「スマホ・ゲームの課金制」と同様に、数多のトラブルを生み出していた……。聞くところによると、ネット・ぷよで名を馳せたsetaにも予期せぬ「通信代10万円」の請求書が届き、「親にひどく叱られた」こともあったそうだが……w 今のネット上にそのソースは見つけられなかった。ご存じの方がいましたら、ご教示いただけますと幸いです。

そのseta氏の、「第3回全日本ぷよマスターズ大会」(97)における雄姿がこちら。ともに技を磨き合ったミスケン氏を破っての、堂々たる優勝となった。

また、ネット対戦からは一時脱線するが、98年にはぷよら~のトラウマとなった大事件が起きている。同年318日、株式会社コンパイル、経営破綻……。コンパイルの栄枯盛衰を描いた動画はこちら。今の若い方には「SEGAのゲーム」という印象が強いだろうが、ぷよぷよを開発し、公式大会を運営していたのはコンパイルである。その破綻が意味するところは、「公式大会が消滅し、二度と開催されない可能性が高い(この時点ではSEGAへの譲渡は決まっていなかった)」……。自らを証明する舞台を急に奪われてしまった形で、天を仰いだぷよら~は多かったと思う。筆者のような小物は、この時点でmotivationを失ってしまった。「せっかく大学に受かり、4月からやり込んで上を目指そうと思っていたのに……」。況や、全国最強クラスのトップ・ぷよら~をや(なぜ急に漢文?w)。その落胆ぶりは、筆者の想像を超えていたことだろう。

それでも彼らは立ち上がり、AC対戦会を続けた。ここが、一介の雑魚ぷよら~(筆者)とトップ層の差です、メモしましょうw (真面目な話、彼らがAC対戦会を続けてくれたおかげで、ぷよの歴史が現代までつながったとも言える。深い尊敬と感謝の念を捧げます。)

筆者は大学生活に入り、自然とぷよから離れていった。「二度と接点はないだろう。仕方がない」と思っていた。しかし数年後、半ば無理やり力技でw それを引き戻すような大きな動きがあった。

ぷよぷよ2ちゃんねる(通称:2ぷよ)」の爆誕である(2002年)。今はなきFlashで、何と個人により開発され、通信代(この頃には定額制になっていた)以外は無料でプレイできるという、当時としては夢のようなツールであった。上記のリンク先にもあるが、現代に残る数少ない2ぷよ対戦動画がこちら。対戦環境はこれでご想像いただけるかと思う。

ゲーム・センターと違い、時間も場所も問わずに全国の猛者と対戦できるという、当時のぷよら~が渇望していた環境が遂に手に入った。このインパクトは大きく、ぷよ界への貢献も絶大だった。「4強(くまちょむ氏、Alf氏、Kamestry氏、Kuroro氏)」に次ぐ世代は、その多くが2ぷよ育ちと言っても過言ではない。具体名を挙げれば、mas氏、Thomson氏、live氏、くらうど氏、momoken氏、Tom氏、Squika氏、stily氏、飛車ちゅう氏、SAKI氏、selva氏、ざいろ氏、瀬田凪氏、zyu-den……etc.

また、ミスケン氏以外の「4強世代」(やその上の世代)も続々と参戦したが、中でも2ぷよでの活躍が著しかったのがseta氏である。その様子は、Kuroro氏がこちらで述懐している(同氏の了承を得て、Tema氏が自身のブログに転載)。seta氏は多くのIDを使っていたが、その中でも特に印象に残っているのが「haruochan」。ミスケン氏と並んで不定形の開祖とも言えるseta氏が、敢えて「先折り階段積み専用」としたIDだ。階段積みでも当たり前のように勝率9割を叩き出し、特に右側の連鎖尾に特徴があった。連鎖尾のみ、ツモに合わせて不定形的に柔軟に変化させることが多く、対戦相手を幻惑していたのだ。言わば「不定形的階段」で、上記の若手プレイヤー達(当時)が「ボコられた記憶しかないwww」と嘆くであろう程度には、無双していた。観戦動画が残っていないのが惜しまれる、「時空の物語」第2弾である。

ここで、人様の話ばかりでなく、少しは自分のことも。2ぷよに参戦した筆者は言うまでもなく、「2ぷよ廃人」と化しましたwww。当時は大絶賛「引きこもり」中であり、適応障害起因の希死念慮と闘い続ける日々だった。ODによる自殺を企図しては果たせず、呪詛の言葉を並べつつ床を這いずり回る日々の中で、当時から今でも続いている二大趣味、「ぷよ」と「音楽(聴く専門)」はさながら、雲間から差し込むわずかな光のような存在だった。虚無を感じるとすぐにPCを立ち上げ、積み上げたぷよ勝負の数はいつしか数万単位にまで膨れ上がっていた。潰し潰される試合を重ね、気が付くと「引きこもり」は外に出ていた。無為→熱狂→外界へ歩み出す、という一連の流れを、今でも懐かしく振り返ることがあります。

2005年度~(AC対戦とネット対戦の流れを概観)

話を一旦、AC対戦会に戻そう。ミスケン氏という大黒柱を失った「横浜対戦会」は苦境を迎えていた。主催はAlf氏が引き継ぎ、対戦会にはMYK氏やHIRO氏と言ったトップ層の参加は続いていたが、往時より人数が減っており、盛り上がりにも欠けていたという。おまけに七島が台風により水没しかけるなど、ハード面でも災難に見舞われた。

その困難を救ったのは、意外にも2ぷよだった。そこで頭角を現し始めたmas氏、Thomson氏が対戦会に参加。ここから勢いを取り戻し、起死回生となった。またしても、途切れかけた歴史がつながった瞬間である。

その一方で、「4強」の内2名(くまちょむ氏、Kamestry氏)を擁する名古屋市(愛知県)に覇権が移りつつあったのも事実だろう。『ゲームインBOX Q2』(当時)の台頭である。

東京在住の筆者は一度も関東外のぷよコミュニティにリアルで参加したことがなく、手持ちの名古屋情報も限られている。そのため、ここは箇条書きで進行することをご容赦いただきたい。

・「なごやんぷよの会」が対戦会や大会を運営。七島はスペースの都合上(ナミキよりも狭い)、大会開催は不可能だったが、BOX Q2での大会(BOX Q2杯)は年を経るごとに盛り上がっていった。年度末(3月)には年間王者を決める「BOX Q2 マスターズ大会」が開かれ、権威化されていった。大会での最大参加人数は、ナミキと並ぶ128人に達した。

・「なごやんぷよの会」HPでは対戦会記も載る掲示板の他に、「チャット」もあった。ここに毎夜、名古屋を中心としつつも全国の猛者が集い、深夜まで盛り上がっていた。筆者もここをROMるのが日課となっていました。

2005年からは4強による格付け100本先取が多く行われたが、名古屋と横浜での「ホーム&アウェイ方式」が取られたのが印象的だった。

ネットぷよ台頭の後にも、上記の通りAC対戦会の盛況は続いていた。完全にネットぷよに覇権が移らなかった理由として考えられるのは、「ラグ等の操作性の悪さ」、「ACぷよ通との細かな仕様の違い」。特に後者が大きく、ぷよ界では2016年まで「ACぷよ通こそ至高」が総意だった。それは、2ぷよに続く対戦環境が出ても変わることはなかったのである。

そのネット対戦新作が、「ぷよぷよフィーバーオンライン」。2004924日、Windows版の発売によってプレイ可能となった。「クラシック・モード」として通ルールがプレイでき、操作性も2ぷよよりは遥かに上だったが、思ったほどには2ぷよから人が流れなかった印象。ただ、現代に残る2000年代のネット対戦動画のほとんどはこれである。その実例がこちら1P側、THE かめ(Kamestry)氏の連鎖を見てピンと来たあなたは、相当な連鎖狂とお見受けしますw ヒントは……nona積み

当時のトップ層の趨勢として、くまちょむ氏は概ね、「ミスケン手順」の継承とさらなる発展を志した。土台を旧くま積みにほぼ固定し(「くま積み」という名前はこの頃に生まれた。積みの開発者はミスケン氏だったが、多用したのがくまちょむ氏だったので。また、同氏は「縦3」ヴァージョンを多用した)、徹底的にちぎらない爆速手順を編み出し(「ちぎらないぷよ」の開祖は同氏)、基本は2ダブを刺しまくる戦術だった(もちろん、例外は多々アリ)。同じ形を頑固なまでに貫き通したためか、同氏のぷよは「教科書的」と呼ばれるようになった。

一方のKamestry氏、Alf氏はミスケン氏とは違う形を志向した。まだ誰も使ったことのない形を次々と生み出し、実戦投入していく。そして、同じ形の多用は避け、ツモによって毎試合違う形を組んで行く。その形はいつしか「超不定形」と呼ばれるようになり、ぷよ界ではくまちょむ氏よりウケていた。しかし結果は……2000年代半ばの時点では、くまちょむ氏が2人を圧倒。数年後にはその差を詰めてほぼ互角となるが。

上記の動画は時期的に、Kamestry氏の「超不定形」時代のものである。2019年に手順が体系化されるnona積みを、実はこの頃に開発の上、使いこなしていたことが分かる。「超不定形」の先進性を今に伝える、貴重な動画だと思う。

2000年代の締めくくりとして、この時期で筆者の好きな動画を2つ挙げる。1つ目20071123日、Kamestryvs. くまちょむ氏の100先の途中。この動画の416秒から始まる1本における、2Pくまちょむ氏の手順が奇想天外……12連鎖トリプル10万点という結果よりも、土台手順が特異で印象に残る。多連結とはいえ、土台が3連鎖しかない(!)。その再現性の低さからか、くまちょむ氏がこの形を組むのを、筆者はこの1本でしか見たことがない。この100先は後半、Kamestry氏のレバーが不調になっても試合続行されたことから若干の遺恨も残ったりはしたが……くまちょむ氏が後半、ひたすら同時消しで畳みかけるさまに、一貫して同時消しを好んできた筆者は喜んだものでした。

2008年の同カードで、Kamestry氏が初勝利!これを受けて、くまちょむ氏は旧くま積み以外の形を積極的に取り入れるようになる。そして翌年の同カード、30本先取は有名だが、この時代を象徴する試合となった。


……ぷよ界の賑わいは上記の通りだったが、2000年代後半から筆者もご多分に漏れず、人生という名の濁流に呑まれることとなる。いわゆる「普通の人」であれば、就職して、結婚して、子どもができて、家庭・仕事・子育てに追い立てられる日常を「嵐」と言うことだろうが、筆者の場合は様相が異なっていた。詳細は伏せるが、予想だにしない方角から「厄」が飛びかかってきたのだ。「無理心中で、命を絶つか……?」という局面まで追い込まれたことも。生の不可逆性に慟哭したのは1度や2度ではない。この世を呪い、他人を呪い、家族を呪い、自分を呪い尽くした果てに朦朧と、それでもここまで来てしまった。。。あの頃から、自らの底に沈む虚無感に苛まれるようになった。いや、これは実は幼少期からずっと続いていて、大人になってから明確に意識するようになっただけなのかもしれない。

荒れ狂う風に巻き込まれたような日々の中で、当然ながら筆者はぷよどころではなくなる。プレイヤーとしての引退は当然ながら、当時から今に至るまで、コミュニティの「中」に入ることはほとんどなくなってしまう。従って、ここから先の記述はこれまでより内容が薄くなるであろうことをご容赦いただきたい。これまで以上に、「外から見た観察記録」という側面が強くなります。

2009年度~

200911年頃になると、筆者の心身ともにズダボロとなった慌ただしい日常も、少し落ち着き始めた。音楽を聴き、ぷよに打ち込める環境が戻ってきていた。とは言え、それまでに比べるとプレイに身が入らなくなっていた。エンジョイ勢として少しやっては落ち…を繰り返すこととなる。その分、トップ層の観戦には力が入った。

2010年にはネットで1つ、AC2つ、大きな出来事があった。まずは前者から。この頃から徐々に2ぷよは下火になって来ており、次のツールが登場した。「ぷよぷよVS」である。その対戦動画として、真っ先に挙げるべきはこれだろう。popo(後にわんころと改名)氏の登場にぷよ界は大きく沸き、その正体はseta氏ではないかとする論調も目立った。個人的には、別人かと思うが……。

後者では、まず2010322日。Kamestryvs.Alf氏の「頂上決戦」が行われた。全一を決める勝負で、なぜくまちょむ氏が弾かれたのか、詳細なレギュレーションを筆者は失念してしまったが……(確か、全1のくまちょむ氏に勝ったKamestry氏にAlf氏が勝って……のような経緯だったかと)。この試合に関しては複数の動画が上がっているが、特に注目を集めたのはこちらの切り抜きだろう。試合内容はさることながら、Tom氏の解説とシャウトもキマッており、臨場感でこれを超えるものは現代まで出ていないのでは、とすら感じるほどだ。これを見てぷよを始めた若者も、きっと多いことでしょう。

そして同年425日、歴史が動く。momoken氏が100本先取でくまちょむ氏を撃破!これが実質的な、momoken氏「一強時代」の幕開けとなる。ただ、この時期のトップ層はお互いに勝ったり負けたりする状況が続いており、順位は混沌としていた。そこで、「総当たりリーグ戦で、順位を決めよう」と翌2011年から開催されたのが、「ACぷよぷよ通 S級リーグ」である。

S級リーグについては、こちらが詳しく結果をまとめてくださっており、筆者で付け加えることはほぼない。ひとつだけ追記するとすれば、2016年の第5回については、主催者Alf氏のチャンネルですべての動画を見ることができる。特にKamestryvs.ようかん氏における、Kamestry氏の異常なまでの覚醒っぷりは必見だ。

またこの時期、ぷよ界だけでなく、ゲーム界全体を巻き込んだ大きな動きがあった。2012年から開始された、「Redbull 5G」である。現在では初回、2012年のダイジェスト動画が残っている。ここで見られるくまちょむ氏の「指さし確認」は後々まで語り継がれることとなった。この動画だと観客の盛り上がりが伝わりづらいが、ぷよ界だけではない異種団体戦ということで客層も幅広く、ぷよ公式大会とはだいぶ質の違う熱狂を見せていたのが印象的だった。

2016年度~
2016年はS級リーグと統一王座戦が成功裏に終わる。翌2017年のぷよ会は静かだったが、新時代に向けた胎動があった。ぴぽにあ氏主催による、「おいうリーグ」の開始である。同氏による熱い想いはこちらで。このリーグ戦は、翌2018年にひとつの頂点を迎える。そう、あの、ぷよ界2人目の「天才」による乱舞が始まったのだ……。

彼の名は、「まはーら」氏。その活躍ぶりについては左記のwikiに詳しいが、何度でも強調したいのは「現代の先折りGTR全盛をたった1人で成し遂げた」点だ。それまでの先折りGTRのぷよ界での評価は低く、左のL字が定まった形であることからやや定形的であるとみなされ、「初心者積み」的な扱いを受けることもあった。2016年まではとにかく後折りが絶対的であった。

先折りGTR多重折り返し連鎖尾延長というそれまでにも存在はしたが、大きな注目を受けるには至らなかった技術を再発見し、特に多重折り返しにおける体系化はまさに「ゼロから」行ったと言っても過言ではない(それまでの多重折り返しは後折り合体時に左右の高さが揃わない時限定で、即興的に組む形であった。これもミスケン氏が開祖。確か、2004年の対くまちょむ氏戦でも組んでいたかと思う。記憶が曖昧だが)。まず、「先折りで多重折り返しを組もう」という発想自体が、ぷよ界にはなかったのである(そもそも先折りぷよら~が少なかった)。

「百聞は一見に如かず」ということで、ここからは幾つか動画を挙げていこう(敬称略)。
ようかん vs. まはーら
まはーら vs. makkyu(まっきー)
まはーら vs. まっきー

まはーら氏 vs. yuta氏の動画が見当たらず残念だが、これだけでもその圧倒的強さが伝わるかと思う。ちなみに、筆者はこの時期のyuta氏の旧くま積み手順が好きで、この動画などは何度も見ました。

繰り返しとなって恐縮だが、「後折り全盛時代にいち早く先折りGTRに目を付け、1人で戦術を体系化した上で無双する」。ゼロから新たな戦術を生み出して後進に決定的な影響を与えたという点で、その革新性はミスケン氏と比肩するものがあり、まはーら氏もやはり「天才」と呼ぶ他はないと改めて感じる。彼の登場前後では、ぷよ界の景色はまるで違ったものとなっているのだ。

その天才も先駆者ゆえの孤独か、強烈に追い上げられる重圧か、理由は定かではないが2018年の活躍を以て一旦、ぷよ界から姿を消す。その引退は強く惜しまれたが、残された動画を基に研究が進み、現代ぷよの戦術が確立していったのである。

(続きは「その2」へ。字数制限に引っかかりましたw)
更新日時:2026/02/01 19:52
(作成日時:2026/02/01 19:38)
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